流山からアウシュビッツ強制収容所を考える。

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1月27日、アウシュビッツ強制収容所がソ連によって解放されてから80年を迎えた。ここで亡くなられた人々、ここで心身ともに苦しんだ人々に心からの哀悼を捧げたい。

私は、大学卒業時にダッハウ強制収容所、29歳の頃、アウシュビッツ強制収容所跡を訪れた。アウシュビッツは、9月だったにもかかわらず、体の芯まで冷えるような寒さで、あの時、あんな薄い綿の洋服だけで、収容者たちはどうやって生きていけたのだろうと実感した。本当に寒くて、それだけで辛かった。焼却炉、ガスが出てきたシャワー室跡、収容者を射殺した際の壁、収容者が残した大量の毛髪、靴など、ヘロヘロになりながら見学した。アウシュビッツで、収容者の身代わりになって死んだコルベ神父の存在は知っていたが、そのお顔を初めて写真で見た。

印象的だったのは、戦争前の世界情勢を説明しながら、なぜヒトラーが政権を獲得できたのか、なぜ戦争をしたのか、丁寧に説明されていたことだった。日本との大きな違いだと思った。

式典で、サバイバーたちが語った。

「特に若者たちに対し、人種や宗教、あるいは性的指向の違いへの不寛容や敵意の表れに注意するよう訴えたい。」

「歴史を繰り返さないため、差別をあおる主張には賛同せず、許さないでほしい。」

これらの言葉は、ヨーロッパのみならず、日本にとっても、アメリカにとっても重いメッセージだ。

トランプ米大統領や企業家イーロン・マスク氏の発言と行動、ドイツ、オーストリア、フランスなどで台頭する極右政党の発言と行動、ドイツなどで起きているシナゴーグや食品店などへのテロや放火などを私たちが決して許してはならないということへの呼びかけだ。

日本でも世界でも、この間、多様性を受け入れる社会の実現が求められてきた。一人ひとりはみな違っている。だから「あなたと私は違う」。まずそれを認めること。そこから始めなくてはならない。その上で、互いの存在をきちんと認めて、誰もが共に生きていける社会を実現しようということだと理解している。

とはいえ、人種や性的指向などは「生理的に受け入れられない」として、自分と違う相手を攻撃し、相手を抹殺しようとする人たちがいる。

私は、お互いが理解しようとするためのコミュニケーションはあった方がいいと思う。一方で、「生理的に受け入れられない」ということもあると理解している。ただし、たとえ「生理的に受け入れられなく」ても、互いの存在をきちんと認め、相手を差別したり、社会的権利を奪ったり、言語や暴力で相手を攻撃するということだけは、絶対にあってはならない。お互いが、それぞれの空間を守りながら、同じ社会の中で生きていくことを保障することだけは、死守しなくてはいけないと思っている。それができなかった時、社会から制裁を受けるのは当然だ。

これからの社会を生きる子どもたちにも、そのことをしっかり理解してほしい。それが、私の訴える「未来をみすえた教育」のうちの一つだ。それがきちんと理解できた時、多くの子どもたち・若者たちを蝕む「いじめ」も減っていくのではないか。

アウシュビッツ強制収容所解放から80年。

人類が決して忘れてはならない歴史の事実、人間の姿がここにある。

Never forget.

Never again.

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