■子ども時代
警察官の父と専業主婦(のちに会社員)の母の長女として生まれる。父の在職中、帰省以外、家族旅行は一度もなかった。しかし、365日24時間、電話が入ればすぐに仕事に出かける父を尊敬しながら育つ。
「親に叱られても、絶対下を向かず、上を向いて泣く子だった」とは母の談。
父の転勤のため3回転校。戦死した叔父の墓参りに父から聞いた話から戦争について考え始め、今に至るまで考え続けている。放送委員会。バスケット部キャプテンとして県優勝。バスケ命。陸上400Mリレーで県新記録。山口百恵派、オフコース好き。
■中学・高校時代
生徒会総務委員長。陸上部(走り幅跳び)。Y.M.O.好き。洋楽を聴き始め、友人とテープ!を貸し借りする毎日。生徒会室で毎日ひたすら政治談義。最高の学校生活。人としての背骨をつくってもらった。
当選して先生からもらった役員バッジ。男子は「委員長」、私には「副委員長」?すぐ先生に「先生、私は総務委員長に立候補して当選したのであって、総務副委員長に当選したのではありません。」と伝える。先生「その通り。33年間、あなたみたいなことを言う人はいなかった」。翌日、女子役員全員に無事「委員長バッチ」が届いた。
教育実習生の解釈がどうしても納得いかない私。手を挙げて自分で授業を継続!授業後、国語の先生が「上田来いっ!」叱責されるだろうとトボトボ行くと、先生からは「上田、今の授業よかったぞ」。そういう先生たちに育ててもらいました。
新設校の1期生。先生方の並々ならぬ期待を受けた3年間と浪人時代。新聞部のコラムニスト、生徒会副会長。選挙がなく指名制、なぜか女子は副会長で納得いかず。放課後は、ひたすら新聞部で議論?恋バナ?の毎日。図書館司書さんと仲がよく、いろんな世界への扉をあけてもらった。
■大学・社会人時代
慶應義塾大学法学部政治学科卒業。神谷不二ゼミナール。神谷教授やゼミ友から、なぜか「MAMA」と呼ばれる。卒論はヴェトナム戦争。
慶應義塾大学新聞研究所在籍。
国際人権問題コンクール外務大臣賞受賞
アジア5カ国を視察。ODAの現場や大使館、現地の学生さんたちなど、いろいろな方と交流。世界への扉が開いた。
三和総合研究所(現在、三菱UFJ総合研究所)研究員、公共政策チーム在籍、東京都「男女平等意識調査」など担当。
アムネスティー・インターナショナル で休日はボランティア。
「女性と人権」世界キャンペーン ボン会議参加。
アムネスティ・インターナショナル世界大会(スロヴェニア大会)参加。
アジア、アメリカ、ヨーロッパ各地を一人旅。アウシュヴィッツ収容所、ダッハウ収容所、ジェノサイド・ミュージアムなど訪問。第二次世界大戦、全体主義は今もなお自分の中のテーマ。
■留学・広報会社時代
ESSEX University 国際人権法コース 法学修士号
イギリス英語に苦戦。しかし、今はアメリカ英語に苦戦😭。あれだけ日本語で議論していた自分が、英語で何も主張できない。「言葉をもてることは力だ。」と実感。そして、大切なことを言葉で主張できないことがあるということを忘れてはいけないと思う。政治の責任は、その声をきちんと汲み上げ代弁することだと痛感。
楽しみにしていた授業の一つが「難民法」。ところが、担当教授が国内リーブ(国内での研究活動)のために授業がないと発覚!世界各国から、この難民法を学びにきていた学生たちから悲鳴の声が!すぐに紙とペンをもって、コース全員の学生と話をし、署名を集め、学校と教授に提出して交渉。「難民法」だけ特別に開講。UNHCR職員やアフリカ諸国からの留学生たちが本当に喜んでくれた。
プラップ・ジャパン(広報会社)アカウント・エグゼクティブ。女性3人のチーム。夕飯は毎日「なか卯」親子丼。Y2K問題の対応で、2000年1月1日0時は、同僚とオフィスで迎えたなぁ。
■国会の議員秘書時代
最も印象に残ったのは、児童虐待防止法。各地の児童相談所などを視察・ヒアリング。当時の某県中央児童相談所の所長は、「あなたたち若いからもう少し様子をみて勉強しますか?」と夜遅くまで滞在を許可してもらう。保護される子どもの様子(背中じゅうに赤く広がるミミズ腫れ。決して虐待した親を責めないし、自分の思いをストレートに話さない様子)を知る。また夜勤の保育士2名がそれぞれ両手に乳幼児を抱えて(よって4人の乳幼児)、保護されている他の子どもたちの面倒をみる大変な勤務状況を知ったのはこの頃。
毎朝、新聞の一面を見て、予定していた仕事がすべて入れ替わるような毎日。予算委員会の前日、夜中に国会内の事務局に資料を届けた帰り道、誰もいない美しい国会をゆっくりと見て歩けたことがご褒美だった。子どもと寝落ちし、朝4時に起きて仕事。通勤電車はMY オフィス。電車での資料読み、または寝落ちは貴重。この頃、子どもが毎年のように気管支炎で入院。夫と交代で病院に泊まる。トイレでスーツに着替えて職場へ。長期入院の子どもたちや家族の支援の必要性を痛感。
児童虐待防止法、戦後補償問題(遺骨問題、中国残留孤児、在外被爆者、シベリア等遺骨問題、BC級戦犯問題など)、「消された年金問題」、選択的夫婦別姓問題、DVシェルター支援、社会保障改革法案、憲法など様々な問題、法案、支援に取り組む。
議員の予算委員会、厚生労働委員会関係の質問づくり。児童相談所や年金情報管理場所など、本当に様々な現場を視察。沖縄で起きる性暴力問題、基地問題では、アメリカ大使館、アメリカ国務省や国防省などで議員と共に交渉。東日本大震災の当事者からの訴えは、今も教訓として残っている。
最も印象に残った問題は、大阪二児餓死事件。この時残された宿題は、市長としてやり遂げたい。
山梨学院大学法学部非常勤講師「国際社会と人権」兼任。
第二子不妊治療のため退職。
子どもは保育園で育ててもらった。味を感じる舌も、箸の使い方も、逆上がりも、親が何もしないうちにできていた。子どもは子どもたちの中でこそ育つことを実感。子どもたち、そして子どもたちのことを何よりも大切に労力を惜しまない保育士たちによって、のびのび育ったからだと思う。子育てについて園で「学んだ」ことも貴重。保育園の時の母さんたちに、今も支えられている。イベント部で出会ったロバの音楽座やカテリーナ古楽団。今も毎年、家族でクリスマスコンサートを楽しんでいる。
■流山での生活・その他
子どもが小学校入学
学校の依頼で、子どものサポートのため4年間毎朝学校に通う。子どものサポートは最初の一ヶ月程度で問題なかったが、学校から「もういい」とは言われない。なので他の子どもたちをみるつもりで、毎朝通った。朝の子どもたちの様子、問題をつぶさに観察。6年間読み聞かせや図書修復のボランティアに参加。
息子が小学校1年生の時のクラスのママ友たち、PTA活動等で知った友人たちに恵まれる。この時の友人たちのおかげで、孤独感を抱えず過ごすことができた。お互いの子どもたちが育つのを共に見守り、喜べる仲間をもつことの幸せ、コミュニティがあることの大切さを実感。
映画「みんなの学校」流山会場 自主上映会 代表。
映画「みんなの学校」は・・・・
大阪市立大空小学校の1年間を追ったドキュメンタリー。
大空小学校のルールは1つ、「自分がされて嫌なことは人にしない。」。
大空小学校には、特別支援学級がない。クラスには、いろんな子がいる。なかなか教室に入れない子、人に暴力をふるう子、新しい水着を買ってもらえない子。
大人もいろんな人がいる。子どもに怒鳴って校長から「あなたは子どもに暴力を振るった」と叱られる新米先生、子どもと一緒に学校に来てくれる地域の大人、「私のクラスの子、あなたのクラスの子」でなく、みんなで子どもたちを見守ろうとする職員の姿。
喧嘩もある、涙もある、暴力もある、笑いもある。
子どもたちは、ぶつかって、お互いを知っていく。
どうしたら、目の前の子のためになるのか考え、自分で動いていく。
時に引っ張って、時に背中を撫でて。
そうやってできた仲間とのつながりがあるから、だれもが学校に行ける。
その関係をそっと見守り、導く、大人、職員たちの努力。
特別支援学級は本当に必要なのか?
大空小学校の子どもたちを見ていると、いろんな葛藤が子どもたちの工夫をうみ、関係をつくるのがわかる。みんな一緒だからこそ、みんなが育つのだと思える。
2年間の勉強と福祉施設への実習を経て、社会福祉士の国家試験に合格。
子どもへの甲状腺検査流山会場実施団体「健康調査TEAMながれやま」代表。
東日本大震災による原発事故。関東地域も放射能が降ってきた。子どもたちへの影響はどうなのか、右往左往する毎日。子どもたちの健康を心配した関東地域の女性たちが立ち上がる。彼女たちは、地域の線量を計り除染することや子どもたちにエコー検査を実施するよう国に求めた。のちに、線量を計り、除染されるようになったが、関東地域の子どもたちにエコー検査は実施されなかった。
そこで女性たちは、自分たちでお金を集め、検査機器を購入し、医師や技師を
募り、検査の実施を自分たちで行ってきた。それが関東子ども健康調査基金だ。
その地域でのエコー検査の実施団体が「健康調査TEAMながれやま」。
東葛地域の自治体は、子どもたちへのエコー検査を助成しているが、流山市のみ、助成はない。
「流山市の公立学校をよくする会」設立。
子どもの数の増大に伴い、小学校の増設が必要になった南流山地区。しかし、そのための土地がないので、流山市は現在の南流山中学校を東洋学園大学跡地に移設し、南流山中学校を小学校に転じることを決定した。
移転先の東洋学園大学跡地は、敷地が広く、二つの体育館、二つの校庭があることに目をつけた流山市は、この敷地を二つに分け、南流山中学校を移設するとともに、隣接地に私立の暁星国際中学校を招致しようとした。
公立中学校の隣に私立中学校があることの子どもたちへの影響を考えれば、隣設は不適当であると「流山市の公立学校をよくする会」を立ち上げ、運動を開始。署名を流山市に提出。地域から多くの批判が続出した。
2022年2月。私立中学校側から辞退の申し出があり、隣設は白紙に。
孤独のグルメ。
CDはThe Screentones「孤独のグルメ1 」。
縄文文化。
一番好きなのは遮光器土偶こと「シャコちゃん」。
映画鑑賞、読書、音楽鑑賞
夫と中学3年生の息子と3人暮らし。
南流山在住。