東日本大震災から12年。
3月11日14時46分。
鎮魂の日。
あの日のこと、あの日以降のことを思い出す。
皆さんは、あの時をどこで、どのように経験しただろうか。
私は国会内にいて激震を経験。議員会館11階まで階段で登ると、虎ノ門方面のビルがまだ大きく揺れていた。仕事が忙しい時期で、母が応援に来てくれていたので、子どもはすぐに確認できた。連れ合いは5時間かけて帰宅。私は帰宅できなかった。「行ってきます」といって、家族みんなが夜また一緒にいられることは、本当に幸せなことなのだとつくづく思った。
原発事故は、多くの人の生活を変えてしまった。東北地方の皆さんはもちろんのこと、流山に住む私ですら、金町浄水場の水道水から放射性ヨウ素が検出され、2歳の息子のミルクのため、ミネラルウォーターを求めて走り回った。スーパー、コンビニも、自動販売機も、水が売り切れ。途方に暮れた。
その後も仕事はある。毎朝、南流山駅に行列をつくって通勤しましたよね。連日続く東京電力福島原子力発電所事故調査委員会。福島みずほ参議院議員と共に「メルトダウン」の事実追及。その後、その活動は「東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」につながっていった。何度も首相官邸に行っては、原発事故への対応、国民への情報提供、避難についての提案、「原子力市民委員会」などの専門的な知識やアドバイスをつなげた。しかし、本当に国民にとって大切な情報が共有されたのか。
国のSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)が国民たのめに何ら活用されなかったことを追及。私自身も、国からの情報ではなく、ドイツの研究機関などが流す情報をもとに、放射能の流れを保育園と共有しながら過ごす。子ども達は大好きな外遊びもできない毎日。いち早く保護者も動いて園庭の除染をしたり。西日本からの野菜を探したり。原発事故の体への影響について講演をきいたり。他の若手秘書たちと連日集まり、原発事故についての冊子をつくったのもこの頃だ。
関東圏に住む女性たちが、原発事故の子どもたちへの影響について政府に対応をもとめる国会での活動を支援してきた。その動きの頼もしかったこと。その後、女性たちは「関東子ども健康調査支援基金」を立ち上げて、お金を集め、検査機器を購入し、医師や技師の協力を得て、自分達で関東各地の子どもたちへの甲状腺エコー検査を実施するに至った。流山会場でも、女性たちが活動。「健康調査TEAMながれやま」を立ち上げ、国が、流山市が、行わない関東地域の子どもたちへの甲状腺エコー検査を実施してきた。女性たちの行動力が子どもたちの健康を見守ってきたのだ。
流山市でも、各党の市議会議員さんを招いて、原発事故の健康への影響、放射能汚染調査について問いかけた。「市長が大丈夫と言っているから大丈夫です。」という意味不明な発言もあった。大切なのは、何をもって大丈夫というのか。事実をもとに発言されていたのか。あの時、流山市は「予防原則」に基づいて行動できたか?答えは否だ。
あの時の日本に、専門的な知識を持っている人は非常に少なかった。私からお話ししたのは、「何をもって『安全だ』と言えるのか。放射性物質は、色もない、匂いもしない、すぐにはわからないものだ。だからこそ、放射性物質を責任もって測り、科学的事実をもって示すことだ。だからきちんと測定が必要だし、科学的な知識が必要だ。」とお話しした。
それぞれが、それぞれに動き、悩んだ日々。西日本に避難した方々もいた。今もなお、東日本大震災の影響は続いている。
死者・行方不明者:15900人・2523人(警察庁より)
帰還できない方の人数:3万884人 (復興庁より)
あの時の教訓を伝え続け、いまに生かしていくこと。
それが亡くなった方、行方不明の方々への約束だと思う。
帰還できない方への支援も、時が経つからこそ、改めて大切だ。
※2023年3月21日一部変更。
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