流山からフランチェスコ教皇を悼む。2025.04.21公開

誰一人取り残さない

フランチェスコ・ローマ教皇が亡くなった。

まさに今朝、フランチェスコ教皇が、直接、人々にイースターの祝福をされたというニュースを見て、安堵していたので、一報を聞いた時には、まさか!と、信じられなかった。しかし、最後の最後まで、自らの務めを果たした一生だったと言えるだろう。

私は、キリスト者でも、カトリック信者でもない。

しかし、フランチェスコ教皇のさまざまなメッセージや生き方に感銘を受けたことは間違いない。

映画「ローマ法王になる日まで」では、軍事政権下にあったアルゼンチンの中で、人生を謳歌し、カトリックという枠にとらわれず、柔軟に人々を許し、支えた姿が描かれており、心からの敬意を抱いた。

教皇に就任された時、フランチェスコ教皇は、ストリートチルドレンの子どもたちを教会に招き、自らその足を洗い、その足に接吻した。その姿を見て、本物の教皇が誕生したと思ったものだ。

「本物」に、何教などという名称はいらない。私と同じように、イスラム教の指導者や他の宗教の指導者たちに敬愛され、多くの政治家たちに尊敬された。それは、繰り返すが、アルゼンチンの軍事政権下にあった若き日々から一貫として、行動した教皇の姿と言葉ゆえだと思う。

ゆえに、政治に携わるものとして、宗教との関係は一線を引くものでなくてはならないが、私にとってフランチェスコ教皇は、宗教を超えた存在だ。

2019年に訪日された際に、私は関口教会の前に立ち、フランチェスコ教皇の姿を見ることができた。とても優しいお顔だった。その時に、関口教会で求めたブレスレットは、ボロボロになりながらも、今も私の左手首にある。自然に切れるまで、つけておくつもりだ。

私は、キリスト者ではないし、十分にその言葉の意味を理解していないのだろうけれど、訪日の際の言葉の一部をここに記したい。

「よそから来た人、間違いを犯した人、病気の人、牢にいる人は、愛するに値しないのですか?イエスは、重い皮膚病の人、目の見えない人、からだの不自由な人を抱きしめました。それは、共同体として、傷ついた人をいやし、和解とゆるしの道をつねに示す、野戦病院となることです。主は結ばれ、善意あるすべての人と、また、異なる宗教を信じる人々と、絶えざる協力と対話を重ねるならば、わたしたちは、すべての命をより一層守り世話する。」

原爆の廃絶についても、平和ということについても、偏ることなく、大切なメッセージを発し続けてくださった。

私と同じように、キリスト者ではない者すらからも敬愛される存在として力をもつほどの教皇が、再び存在するだろうか。ウクライナの戦争、ガザの殺戮、人として許せないような事態が起きながらも、世界がこの現状を救えない中で、人の尊厳と平和を真っ直ぐに求める人たちと共にあったフランチェスコ教皇の不在は、多くの人に不安と悲しみをもたらすだろう。

本当に「どんな時も人々に寄り添う」という、あらゆる宗教の本質を具現したフランチェスコ教皇。教皇になってからも質素な生活を続けていらっしゃったと聞く。教皇として、アメリカ先住民に許しを乞い、聖職者の性的虐待に取り組んだ。その思いを継ぐ者に、続いてほしい。

フランチェスコ教皇、その一生に心からの敬意を表し、ご冥福をお祈りします。

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