再び、流山からフランチェスコ法王を悼む。2025.04.27 公開公開

誰一人取り残さない

本日、4月26日17時より、フランチェスコ法王の葬儀が行われた。

ヴァチカン市国から遠く離れて、日本の地で、葬儀に参加できるとは!

床に少し起こすような形で置かれた木の棺。多くの人が、最後の別れに訪れたという。

今日は、すでにその棺が閉められていた。棺には、ただ「フランチェスコ」とだけ書かれているという。

亡くなってから、さまざまな報道が続いている。中には、カトリック教会内で起きた、神父による子どもたちへの性的虐待の問題について、対応が十分ではなかったという批判があることも承知している。

しかし、フランチェスコ法王は、神父による性的虐待の問題、先住民の子どもたちへの虐待の問題など、難しい問題に取り組み、謝罪をして回った。

また、ガザで起きている戦争に心を痛め、ほぼ毎日電話をしていたという。それができているリーダーがどれだけいるだろうか。

多くの人たち、信者である人、私のように信者ではない人、皆が、その人としての温かさ、道徳性、謙虚さを語り、質素を重んじ、貧しい人たち、排除される人たちに心を砕き大切にしてきた姿について語っている。戦争を終わらせ、平和の大切さ、地球環境問題の深刻さを訴えた。原子力爆弾の非人間性について世界に発信した。人々が「まるで自分の家族を失ったようだ」と口々に語る姿を報道で見ながら、世界は、今の世界に最も必要とされるリーダーであり、発言者を失ったと思う。

葬儀には、各国の要人たちが集まっていた。もちろん、トランプ米大統領も。枢機卿が、フランチェスコ法王は「対話が解決策をもたらす」と指摘していたこと、「誠実なネゴシエーションが完全なる解決をもたらす」と語っていたが、トランプ大統領は、その意味が理解できただろうか。

4月21日付けの本ブログでも書いた通り、私はキリスト教者ではない。しかし、宗教を超えて、学ぶものが大きかった方だった。誠実さ、率直さ、謙虚さ、質素さ、笑顔、ユーモア、温かさ。宗教を超えて、何のために宗教があるのか、宗教は人々のために何をしなければならないかを深く理解し、実践した方だった。その意味で、多くを学ばせてもらった。

最後に、あるフランス人女性が、フランチェスコ法王の死去に際して語っていた聖書の一節を記して、心からの哀悼を意を伝えたい。不勉強な私は、フランスの街角で、彼女が誦んじた聖書の一節を初めて知った。まさに、フランチェスコ法王への言葉に思える。心からの敬意と感謝を込めて。

ティモテオへの第二の手紙II 第四章6−8

私が注ぎのいけにえとして注がれ、帆を張って去るべき時はもう近づいた。

私は、よい戦いを戦い、走るべき道のりを走り尽くし、信仰を守った。

「聖書」講談社

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