沖縄慰霊の日。流山より悼む。2025.06.23公開

戦争・平和

今日6月23日は、戦後80年目の沖縄慰霊の日。

今年も平和の礎に、多くの人々が集まり、自分の親戚を含め沖縄で亡くなった人々を悼んでいる。ヨーロッパ諸国が外交で問題解決に取り組んでいる時に、アメリカがイランを爆撃した衝撃が新しいからか、ウクライナやガザにいまだに平和が訪れないからか、老いも若きも、沖縄の人々が「日本も、世界も、戦争がない世界になってほしい」と語っていたのが印象的だ。「この80年間、ずっと苦しかった。」戦争孤児だった男性が語る言葉が胸に響く。

約20万人もの市民が殺された。流山市民のほぼ全員が戦争で殺されることになる。その凄まじさを実感する。

先日は、自民党の西田昌司参議院議員が「ひめゆりの塔」について、事実を歪める、極めて恣意的なご自分の解釈をさも事実のように語り、大きな問題となった。私は、歴史に対して謙虚でありたいと思う。

私にとっては、平和の礎と聞くと、二人の人を思い浮かべる。

一人は、元沖縄県知事、参議院議員だった大田昌秀さん。

もう一人は、私の友人Hさんのお父様だ。

大田さんとは、いろいろなこところで一緒に街宣をさせてもらったり、応援し、励ましていただいた。今も、自らの経験から発するブレない平和への思いと知的な温かみが残っている。大田さんが沖縄県知事の時に、この平和の礎が造られた。そこに刻まれている名前は、日本人のものだけではないことにお気づきだろうか?ハングル文字の名前もある。国籍に関わらず、沖縄で亡くなった全ての方の名前を記録することは、大田さんの意思だった。

実は、朝鮮半島出身者の方の名前を丁寧に探し出し、記録することに協力された学者さんが、私の友人のお父様なのだ。

私は、大学で国際政治の神谷不二ゼミナールに所属していた。卒業前に、ゼミで韓国に旅行した際に、ソウル大学の学生で、私たちの韓国旅行にアテンドしてくれた3名の学生のうちの一人がHさんだ。

彼との話の中で、ひょんなことから、お父様が平和の礎に関わられたということを聞き、大田昌秀さんにお話したところ、その縁に大変驚かれ、ことの詳細を教えてくださった。私もまた大変に驚き、感動した。大田さんも大変感謝しておられた。

沖縄戦は、本当に無残だった。何よりも市民の犠牲が大きい戦地となってしまった。沖縄の知人と話すと、よく「軍隊は市民を守らない」ということを話す方が多い。それは、まさに沖縄戦の教訓なのだ。日本の戦後80年は戦争をしない80年だった。このことの重みを感じるとともに、誇りに思う。そして、この野蛮な世界の中にあっても、歴史の事実に謙虚に耳を傾け、これを次の世代にも伝えながら、平和を希求する国民でありたい。

コメント