4月13日の朝日新聞に硫黄島についての記事が掲載されていた。
硫黄島の激戦については知っているつもりだったが、昨年、従姉妹から、私にとって、そう遠くない人たちが硫黄島の激戦に関わっているということを知らされた。私の両親の出身地からの部隊?が、硫黄島に派遣されたというのだ。
Aさんとしよう。Aさんは、私の母の実家近くに住んでいて、母の一つ年上だったという。Aさんの父親も硫黄島に送られ、戦死した。一度、怪我か病気のため帰宅したものの、高い階級だった彼は「みんなが必死で頑張っているのだから」と戦地硫黄島に戻り、戦死したという。親類が夜中に彼を埋め、爪だけを持って帰ってくれたという。「親類だったから、あれだけの危険の中で埋葬して、爪を持って帰ってくれたんだろうね。」と、従姉妹は話していた。
父親を戦争で亡くし、大きな田を所有するAさんの家。母によると、色白で、頭のいい子だったという。父親がいたら、大学などに進学できる子だっただろうと。しかし、大きな田を任せられ、学校も休みがちに。戦後は、家の田を守り、米価が安くなっていった戦後の農家を支えて一生を終えた。それだけではなく、ここでは書けないようなことが起きた。
昨年から今年にかけて、従姉妹や母からその話を初めて聞いた。そして、しみじみと、戦争によって狂わされた一人の少年の一生を想った。Aさんに起きたことをここで書かないで、何も伝わらないとは思うが、やはりここでは書けない。
従姉妹や母としみじみ話すのは、戦争さえなければAさんに起きたことは、起きなかっただろうということ。戦争というのは、人の命を奪うというだけでなく、人の幸せや人の精神を狂わせるような残酷さをもたらすものだということ。戦後の日本の中で、このAさんだけでなく、Aさんと同じような境遇の人たちが、その身に起きたことを耐え忍びながら、生きていったのだということを忘れないでいようと思う。
戦後80年が経とうとしている。記事には、日本の防衛大臣と米国の国防長官が互いを「友」と呼んだという。結構なことだ。しかし、政治家ならば「なぜ、あの戦争を起こしたのか、起きたのか」「なぜ、あの戦争を回避できなかったのか」ということへの明確な答え、自らの考えを語るべきではないか。一方で、確かに、そのような戦争に関する発言は、時に暴力によって抑圧されてきたのが日本だ。
いかなる戦争も賛美できないし、戦争という手段は、政治の敗北だと思う。
時に暴力によって抑圧されてきたのは事実だが、それでも政治家ならば語らなければならない。この問題を語らずして済ませてきた日本社会。わたしたちが、歴史への学びや思考の浅い人物ばかりを国会議員として選んできたため、この国にとって最も重要な「歴史の事実」に対する考えが定まらない者たちが、この国の議会や内閣を担ってきた。
その結果、戦争の放棄を明記した日本国憲法を懐きながらも、この国は、ウクライナ戦争にもガザへの攻撃にも、何ら「意味ある働き」ができていない。「芯のある外交」が築けていない。
戦争に至るほどの情勢を回避解決し、平和を維持することのほうが、戦争を行うより難しい。戦争を始めるより、戦争を終わらせることの方が難しい。日本の政治家、日本の軍部に、それができなかった事実を認めなければならない。そして、政治家も軍人も、自らの判断によって、国民の命と生活を破壊してしまうことへの責任の重さの自覚が決定的になかった。身を挺して、どれだけの責任ある地位にあった者が、真に「闘った」か。
硫黄島の激戦に散った者たち、米側6500人以上、日本側2万1900人以上。それから80年に、想う。
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