先日、「流山から『黒川の女たちを想う』」を書いた。

その映画を柏の旬報シネマシアターで観てきた。
かなり辛い。
黒川村では、結局、開拓団員の命を救った女性たちは、差別と偏見にさらされ、村を離れるものたちもいた。
安江善子さんは、「満州にいる時より 帰国してからの方が悲しかった」と書いている。
そして、どなただったか、「男たちは、私たちを守らなかった。」とも言っていた。
関東軍の男たちも、開拓団の男たちも。開拓団の男たちは苦渋の判断だったかもしれない。しかし、そうだったとしても、帰国後、全員の男性ではなかったとしても、男性たちは彼女たちを侮辱し守らなかった。
一方で、女性たちを悼み建てられた「乙女の碑」には、碑文が建てられなかった。その碑に、2018年、碑文を建てることができたのは、黒川開拓団遺族会会長の藤川宏之さんという男性たちの努力でもあった。宏之さんは、自分の父親が誹謗中傷した本人だったのかもしれないと思っている。その息子の宏之さんの粘り強い取り組みが、碑文建立を実現し、謝罪し、感謝し、彼女たちの苦しみを癒してくれた。
満州に送られて行ったのは、貧しい農民だった。その農民たちは、人間の盾としてロシアとの前線に送られ、無防備な市民だったにもかかわらず、関東軍からは守られず、棄てられた。多くの開拓団が集団自決を選んだ。そして生き残ろうと決意した開拓団は、黒川開拓団のように若い女性たちに、開拓団員の命を託した。
しかし、帰国後に待っていたのは差別と偏見の連続だった。
結局、帰国した農民たちは、農地を手放していたため、政府が用意した開拓地に再入植し、苦労に苦労を重ねた。誰よりも早く実名で、性接待について語った佐藤ハルエさんは、まさに村を出て、土地を開拓し、借金して畜産をして生活をつくりあげた。彼女は「農業しかしたことがない者が、農業ができたんですから、苦労ではありませんでした。」と語っている。こういう人たちが、日本の戦後を支えたのだ。私にはできない。
ハルエさんの容態が悪くなっていった。性接待の時、10歳くらいで、女性たちのために風呂を焚く係だった安江菊美さん、ずっと彼女たちに寄り添ってきた菊美さんが、意識がなくなっていくハルエさんに語りかける。
「喉が渇いたって、ボウフラのわいた水たまりの泥水をすすって飲んだよね。ハルエさんも、私も、満州でも、帰ってからも苦労したよね。でも、こうやって家も建てて、頑張ってきたよね。」と語りかける。そんな壮絶な事実が、この国の歴史の中で、傍らに追いやられている。
2007年の舞台「太鼓たたいて笛ふいて」を観にきた小学生に対して、井上ひさしさんは「これはね、昔の話じゃないんだよ。君たちの未来の話だから。」と語ったという。
佐藤ハルエさんの話を聞きとった東京の佼成学園女子高校の高野晃多先生が、高校生と性接待があった歴史について、高校生と学んでいる。「現地への加害」「(開拓団の)内なる加害」「男性目線の歴史の欺瞞」「日常と戦争の連続性」などを挙げている。高校生たちが鋭く反応していく。
佐藤ハルエさん、安江善子さんをはじめ、黒川開拓団で性接待を強いられた女性たちは、その事実を隠したとて、彼女たちは守られなかった。そんな彼女たちは、ずっと定期的に集まって、手紙を交わしながら、互いに慰め合いながら、苦労して戦後の生活を築き上げた。
そして、彼女たちは自ら事実を語ることを選んだ。強いられたわけではない。それが、若い世代から、受け入れられ、感謝され、事実がなかったことにされるのではなく、きちんと記録されることによって、癒やされていった。その姿に、今を生きる私が安堵させられた。
黒川の女たちは、最後の最後までやるべきことをやり遂げた。
黒川村開拓団に起きた哀しみが、二度と繰り返さないために。
映画「黒川の女たち」監督:松原文枝
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