その際に、たまたま見つけたチラシを見て、京都市学校歴史博物館を訪ねてきた。ここは、京都市立開智小学校だった校舎を使った建物だ。建物も素晴らしい!

ここで企画展「京都市の幼児教育150年ー京都市の幼稚園の過去と現在、そして未来ー」を見てきた。

1869年、天皇の東京奠都。これを機に天皇と共に東京に本拠地を移した商人等もいる中、残された京都の人々は、大変な喪失感があったようだ。しかし、京都の人々は、「天皇なき京都をなんとかしなければならない」という思いも強かったようだ。
1868年王政復古。明治維新が始まる。
明治政府は、1872年文部省が「学制」を公布。1879年「教育令」を公布。
ところが、京都では、これら国の動きの前から、天皇なき京都を担う人材の育成として、市民の側から学校をつくっていっている。ここが非常に面白く、興味深い。
江戸末期から、教育者(塾主)、書店店主、画家、香具家、京都府参与といった人たちが、新しい時代の到来を予測し、長州藩士の広沢真臣を助言者に迎え、福澤諭吉の「西洋事情」から学び、寺小屋教育の近代化を模索した。福澤諭吉は、京都の教育を「理想的」と評したという。それは、国主導ではなく、地域・市民主導の教育のあり方を評価したのだと思う。
面白いと思うのは、京都における教育の大改革の土台をつくったのは、政治家や研究者たちではなく、その中に画家たち芸術家が入っていた点だ。
京都は、早くから幼児教育ということの重要さを意識してきた。
明治中期には、ドイツの施設に範を求めた「随意遊戯(園児の自由にまかせる遊戯)」が導入されていたという!当初、幼稚園は「幼稚遊嬉場」と呼ばれていた(1878年に閉鎖)。
また1928(昭和8)年の時点で、保護者向けのパンフレットが作られている。この中の幼稚園の紹介を見ると、すでに「子ども本位」「子どもの自発活動」の重視といったことを訴えている。
よく考えてみても、「就学前の時期」というのは、唯一、人が自由に過ごせる時期だ。その時期に、存分に自らの内から発する欲求に任せて、存分にそれに集中し、存分に体と脳を動かすことは、最も幸せなこと、幸せな時期であり、その後の人としての成長にとって土台となる内的自由を育む時期なのではないだろうか?
京都の大人たちが考え、つくってきた教育環境の中で、さまざまな人物が育っていった。その中で個人的に印象的だったのは、上村松園(ご存知かと思うが、日本画家、女性)だ。
実は、私は上村松園が大好きで、彼女の書いたものは、だいたいわかる。彼女ほど、美しく女性を描く画家はいないと思っている。その彼女は「この京都の教育環境の中で、育ったのだ!」と知って、感慨深かった。
英語、AI・・・と私たちの生きる環境の変化に対応することも必要だろう。一方で、人が人として成長するために何が必要なのか、根本的に大切なものは、それほど変わっていないような気がする。
流山市は、これまで公立幼稚園、公立保育園を閉園してきた。現在、1園のみとなった「流山市幼児教育支援センター附属幼稚園」をも閉園しようとしている。閉園への検討過程も、非常に重要なところで不明瞭な点がある。この点含めて、あらためてお伝えしたい。
「子育てするなら流山」なら、就学前教育という「最も」と言っても過言ではない、大切な教育環境を流山市が、その後に続く、小学校、中学校と続いて継続的に実践できる貴重な場所をなぜ、自ら手放そうとするのか。むしろ、この園は、流山市の宝だ。その価値を理解できず、それを手放そうとする愚を指摘したい。
京都が、自ら、地域の中で、公立の幼稚園・保育園・小学校・中学校を大切につくりあげてきた歴史を知ることができた。それが、京都を愛する京都人をつくっていったのだと思う。
さて、流山市はどうだろう?


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