流山市にて、2025年の憲法記念日に思う。2025.05.03公開

憲法

今日は、憲法記念日。

新聞各紙も、憲法について取り上げている。この国にとって、とても大切な日だ。

今「憲法」を考えるときに、真っ先に思い浮かぶのは、日本ではなくアメリカのことだ。アメリカは、ご存知の通り、世界最古の成文憲法「1787アメリカ憲法」(1788年発効)をもつ国。アメリカのニュースを見ていてると、いかにアメリカ人が「憲法」というものを重要なものと捉えているのかがよくわかる。

大統領の宣誓はもちろんのこと、判決にも法律以上に憲法が語られることが多い。市民の発言、中でも若者の発言でも、憲法が語られ、生活の中に「憲法」が当たり前に存在しているという印象をもっている。本当によく「憲法」という言葉がでてくる。市民が憲法判断をよく知っているし、学んでいる。

ところが、トランプ大統領の2期目が始まって以来、「あの」アメリカにおいて、大統領が憲法を無視した判断と執行を平気で行っている。これに対して、もちろん各地で司法による反撃が起きてもいる。

これまで、大統領による様々な判断と執行は憲法によって縛られてきたし、憲法の遵守を宣誓した大統領なのだから、もちろん憲法に照らして問題や課題が検討されてきた。しかしここにきて、トランプ大統領は完全に憲法を蔑ろにする動きをしている。そして、大きな混乱をもたらしている。

◯エルサルバドル人の強制送還。加えて、その後、うち1名が間違って送還されたことが発覚。彼をアメリカに戻すよう「最高裁判所」が判断したにもかかわらず、大統領は最高裁の判断に従わず、未だ彼を帰還させていない。

◯ハーバード大学に対して、DEI(多様性、公平性、包摂性)の取り組みを中止し、「米国の価値観や制度に敵対的」とみなした学生や外国人留学生を当局に報告するしくみづくりなどを求め、それを拒否されると、大学に対する補助金凍結した。

◯合法的に滞在する外国人の入国拒否や強制送還が起きている。

◯大統領令での出生地主義の停止。

これだけではなく、連邦政府職員の解雇、USAIDEの機能停止、など様々なことが起きている。先日、N .Y.で暮らす友人たちとオンラインで会った。「グリーンカードを持っていても、再入国拒否される可能性があるので、日本に帰国することは、すごく怖い。」と言っていた。

紛れもなく憲法の危機だ。

あれだけ憲法という枠組みを尊重し、議論し、判断してきたアメリカという国が、合法的な選挙によって選ばれた一人の独裁的権力執行を行う大統領の出現によって、これほどに大きく揺さぶられている。

アメリカですら、こんなことが起きるのかと思う。

だからこそ、私たちは「いかに憲法を実現いくのか」ということについて、不断の努力が必要だということをアメリカを通して、あらためて実感している。

憲法というのは、国の理念と国としての方向性を位置づけるものだと思う。だからこそ、どのような国をつくろうとするのか、何を大切なものとして考え、国民に何を求め、国民に何を保障するのか、何を守り、何を認めないのかを示している。この国も、世界も、大きく変化しているのは事実だ。しかし、人間の営みや倫理観、道徳観にどれだけ大きな変化があるのだろうか。

今、様々な憲法改正論点が明らかにされてきている。しかし、法律で対処できることがほとんどだと思う。法律で対処できることを憲法改正の論議でするために、実際の法律改正がなされてきていないのではないだろうか。

「さっさと法改正で議論しろ!」と言いたい。

私は、改めて国会議員はもちろんのこと、国民も、この日本国憲法に従い、日本国憲法が命じることをどれだけ実現できたのかを問われなければならないと思う。日本国憲法前文には、「日本国民は、正当に占拠された国会における代表者を通じて行動し」とあるわけで、特に、内閣総理大臣や閣僚、国会議員の責任はかなり重い。

例えば、論争の多い第九条。しかし、それをどれだけこの国は命をかけて、その実現のために努力してきたのかが、まず問われなければならないと思う。

ウクライナが侵略された時、ガザが攻撃された時、日本政府は何をしてきたのか。どのように行動したのか。できることは、単に武力による支援ではないはずだ。例えば、カタール政府。今、ハマスとイスラエルの交渉は暗礁に乗り上げつつあるが、最初の停戦を実現した。なんとしても、第二段階が実現するよう祈る思いだ。カタール政府がやってきたことはノーベル平和賞に値すると思う。どれだけ耐えに耐え、交渉を仲介していることか。中東地域の問題であるから、日本がカタール政府と同じような役割ができないと言うのかもしれないが、では中国に対して、北朝鮮に対して、どのような外交を行ってきたのか。それが問われるだろう。

中国を脅威として軍備拡大をするのが日本の進む道なのか。私は違うと思っている。

私は中国はすごい国だとは思うが、別に好きではない。しかし、中国と武力紛争をすることだけは絶対にあってはならないと思っている。だからこそ、そのために何をしなければならないかが問われ、実行されなければならないが、今の日本政府の努力は十分ではない。

昨今、外務大臣、自民党幹事長らが中国を訪問している。いいことだと思う。しかし、丁々発止で、日本のために、アジアのために、議論しなければならないはずだが、それができているのか。相手の懐に入って、熱い思いで、日中関係のあり方を訴えることができているのか。巻き込めているのか。抑止させることができているのか。

私は、憲法9条は、第二次世界大戦で死んだ先達から贈られたものだと思っている。だからこそ、なんとしても大切にしたい。彼らが、どんな思いで死ななければならなかったのか、その無念の思いや、戦後の様々な苦難を乗り越えた人たちがいることを知っているからこそ、私は、その贈り物をぞんざいに扱いたくない。私の親族にも戦死者がいる。私の父が大好きだった父の長兄だ。

昨年の8月15日には、家族で、当時高1の息子も一緒に、茨城県の阿見町にある「予科練平和記念館」とその隣接した陸上自衛隊土浦駐屯地内の「雄翔館」に行ってきた。予科練の子どもたちは、結局、特攻要員になっていった。特攻隊員には、予科練の子どもたちだけでなく、私の大学の先輩もいる。彼はドイツ哲学を愛する学徒で、この戦争が負けることも分析できていた人だった。しかし、特攻隊員として指名され、死んでいった。どれだけの無念さだったか。その思いを美化してはならないと思う。今後、私の子どもにも、私の子どもだけでなく、どんな子どもたちにも青年たちにも、あんな思いはさせてはならないし、あんな死があってはならない。

その無念の死を無駄にしないために、あの戦争で亡くなった兵士、子どもたち、高齢者、女性たち、外国人たち、その人たちの死によってもたらされた憲法9条で「この国が世界に何ができるのか」こそをしっかりと点検し、実現させていかなければならないと思っている。これまでの日本の動きでは不十分で、私たちは、まだまだやれるし、やらなければならないことがあると考える。

今年の憲法記念日に思う。

ここに日本国憲法前文を記す。

日本国憲法

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。    ■

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