流山から松戸Bread&Rosessへ。ある二人の村長の判断の分岐点を考えた。2025.07.12公開

戦争・平和

7月12日、松戸市にあるBread&Rosesで開催されたトークイベント「『満蒙開拓団』の悲劇を分けたもの〜長野県の二人の村長の事例から〜」に参加してきた。話者は、吉野信次さん(松戸市民ネットワーク)。私も吉野さんに様々お世話になってきた。この地域の市民自治を進める先頭に立つ方だ。

まず、Bread&Roses店主の鈴木さんから「満蒙開拓団とはなんだったのか?」という概論を聞いて、頭の中が、しっかりくっきり整理され、非常によかった。

次に、吉野さんのお話。満蒙開拓団を送った数を県別に見ると、長野県が突出している。吉野さんは、その長野県にある二つの村の村長の対照的な在り方となぜそのような違いが生まれたのか、に焦点を当てたお話だった。

このイベントの話は、何度かに分けて、お伝えしたい。

満蒙開拓団とは?

吉野さんは、満蒙開拓団とはなんだったのか、山崎豊子さん原作、NHKドラマとなり高い視聴率を誇った「大地の子」のセリフを引用していた。山崎豊子さんが、主人公の父親に語らせた、満蒙開拓団の実相。そのセリフを、ここにご紹介したい。

「開拓団は、昭和11年、広田内閣の時、二十年間に百万戸(500万人)の満州移民計画が国策として打ち出され、当時の拓務省、県、町村の行政機関を通じて強力に推し進められ、長野県も県是として、村の半分ないし、三分の一を満州へ移住させなければ、国からの助成金が得られなかったのだ。

したがって自ら進んでいく家庭は少なく、多くは町村会議決によって、疲弊農村の復興のために、「平和の戦士」「土の拓土」という美名のもとに、送出されたのだった。だが、戦後になって解ったことは、信濃郷をはじめとする北辺の開拓団は、ソ連国境に向かって扇型に配置されており、敗戦の年の5月には、関東軍は対ソ戦略を変更して、満州の4分の3を放棄し、極秘裏に移動を始めたが、ソ連軍の眼を欺き、釘付けにするために、北辺の開拓団は動かさず、放棄地域に置き去りにしたのだった。

しかも関東軍は、ソ連軍の追撃を阻むために、橋や道路を破壊して、老幼婦女子の開拓団員が南下する退路を断ち、関係者のうち、8万人もの死亡、行方不明をだしたのだった。戦争終結にあたって、国家が全力を挙げて救わなければならぬ同胞、それも最も弱者である開拓団の老幼婦女子を見殺しにしてしまったのだ。

その上、戦後35年目を迎えても、それらの人びとの屍は大陸の荒野に野晒しのままであり、辛うじて生き残った子供たちは、戦争孤児として、日本政府から放置されたままである。開拓団員とは、当時の日本国内の人口、食料問題の解決のために満州へ送り出された貧しい小作農民とその家族たちで、国家の政策に騙されて、大陸の荒野に打ち捨てられた棄民以外の何ものでもなかった。」

まさに、これが満州開拓団の実相だと言えるだろう。

今日は、ここまでとする。

コメント