吉野信次さんの「満蒙開拓団の悲劇を分けたもの〜長野県の二人の村長の事例から」の続き。
長野県の二人の村長が登場する。
一人は、木下条村(現阿南町)の佐々木忠綱村長、
もう一人は、河野村(現豊丘町)の胡桃沢盛村長。
佐々木村長については、大日方悦夫、「満州分村移民を拒否した村長〜佐々木忠綱の生き方と信念〜」信濃毎日新聞社、胡桃沢村長については、手塚孝典「幻の村〜衰史・満蒙開拓」早稲田新書、に詳しい。
佐々木村長は、満州への分村移民を拒否する。
一方で、胡桃沢村長は、1943年に分村移民をする。その後、河野村から送り出した94人中73人がソ連の猛攻の中、集団自決する。この事実を知った胡桃沢村長は、自責の念に駆られ、1946年に自死している。
実は、この二人の村長には、共通する経験がある。
ともに、伊那自由大学で学んでいる。この大学は、「民衆が労働をしつつ生涯学ぶ民衆大学」という理念のもと、1924年1月から1929年12月まで、22回開催されたものである。開催期間は短かったものの、幅広い思想の吸収、自由主義・人道主義の精神、リベラルなものの見方、考え方を学んだ。吉野氏曰く、「その後の人生の中で、物事を自分の頭で考え、時局に流されず、公平に見て判断する力を養っていったのではないか」としている。
二人の村長は共に、この伊那自由大学での学びから多くの刺激を受けたようだ。
吉野氏曰く、佐々木村長が分村移民をのらりくらりと延ばし、結局、分村移民を拒否できた背景には、「本心で語り、行動できる仲間」がいたからではないか。特に、共に伊那自由大学で学び、議論し、苦労を共にした仲間「五人組」が助役、収入役、書記、村会議員にいて、佐々木村長をしっかりと支えた。
その一方で、胡桃沢村長の関連資料からは、そのような仲間の存在が描かれていないという。
佐々木村長は、1938年5月の下伊那町村会の「満州農移民業地視察団」に参加し、自分の目で、満州開拓を確認している。その際に、視察団の報告書に反して、旧満人の耕地を追い出して日本人が入植していること、ハルピン市内で日本人が満人に対して威張りすぎている様子などを見て、「本来の開拓ではない」ことに不安をもった。そして、「自分の眼で見たもの」を信じて行動したという。その後、1943年7月〜10月まで、3人の現地視察委員を送ってもいる。
満州への分村移民は、自らの村の村民の命と人生を左右する判断となる。そのことの重さに、佐々木村長は気づき、確認し、自らの判断を信じ、仲間と共有し、仲間と共に、村民を守り切ったということなのではないか。
私自身、どちらの村長にもなり得るのだろう。自分は、どのような判断、そしてどのような行動がとれただろうか、と自問する。
次に、続く。
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