8月6日、流山から平和を祈念する。 2025.08.06公開

憲法

今年も8月6日、広島に原爆が投下された日がやってきた。

私も連れ合いも、幼い頃に、広島で過ごしたことがあリ、私のいとこは今も住んでいる。なので、何か広島には勝手に親しみを感じている。息子も、0歳の時から、この日の8時15分には、毎年黙祷をしている。今日も、家族で8時15分、多くの人たちと共に黙祷した。

私自身も、小学校6年生の修学旅行で再び広島を訪れ、3年前には、うちの息子を含めて家族で訪れ、また息子は翌年、南流山中学校の修学旅行でも広島平和記念資料館を訪れた。

外国人の訪問者が多い。来訪者の約3割が外国人だという。原爆というものの恐ろしさを日本人以上に外国人の方が、今の国際政治の中でリアルに感じている気がしてならない。今年は、パレスチナからも、イスラエルからも平和記念式典への参加があり、長崎の式典にはロシアも参加すると聞いている。

何よりも、あらゆる人が原爆の実相を見て考えることが大切だと思う。

広島平和記念資料館で見るだけでも足りない。広島平和記念資料館では、生き残った人たちの酷い火傷の様子を写真で見るのだが、実際は「溶けて人間の形になっていない状態になる」というのが実相なのだ。その本当の実相は、写真等では見れない。言えるのは、そのような殺し方は、どんな理由にしろ、許されないということだ。

松井広島市長の平和宣言をはじめ、どの挨拶も心に響くものがあった。特に石破首相の挨拶は、安倍前首相の時のようなコピペ挨拶文とは違った。ただし、核兵器禁止条約については何も触れられていなかったことが残念だが。

湯崎広島県知事からの挨拶の以下の部分は、私もいつも思っていたことを語ってくださったので、ここに記しておきたい。

「国破れて山河あり。かつては抑止が破られ国が荒廃しても、再建の礎は残っていました。国破れて山河なし。もし核による抑止が、歴史が証明するようにいつか破られて核戦争になれば、人類も地球も再生不能な惨禍に見舞われます。概念としての国家は守るが、国土も国民も復興不能な結末がありうる安全保障に、どんな意味があるのでしょう。」

流山市も、中学生の修学旅行は各校違うようだし、息子の時は広島だったが、今年は大阪万博や京都などに出かけたようだ。息子が広島・京都への修学旅行に行った後、その報告についての発表を聞きに行ったことがある。その際に、あるクラスの女子生徒は、ある女の子の日記について語っていた。その日記は、8月6日の前日、家族で潮干狩りに行って、家族みんなでうどんを食べたことが書いてあった。が、その翌日からずっと、日記には何も書かれておらず、白紙のままになっていたという。自分と同じような女の子の日常というものが、原爆によって一気に奪われたことに気づいている。

この発表を聞いた時、子どもたちは真剣に一つ一つの展示を見て、それぞれに感じ取ってくれているのだなと頼もしく思った。ぜひ若い人たちにこそ、戦争の実相を知り、歴史の事実を知り、ネットの情報に踊らされることなく、自ら考える人になってほしい。そのためにも、ネットも大切だが、やはり経験したり、実際に本物を見たり、いろんな人と議論したりすることが大切なのではないだろうか。

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