流山から山梨県立博物館へ。地方病終息から30年の展示から学ぶ。

健康

日曜日、山梨県立博物館で「『もう大丈夫!』から30年ー地方病の時代をふりかえるー」を家族で見に行ってきた。

パンフレットによると、地方病とは、「日本住血吸虫という寄生虫が引き起こす疾病」を指し、山梨県特有の呼び名だという。この日本住血吸虫は、哺乳類を終宿主とする寄生虫で、感染すると、腹部が異常に大きく腫れる一方、手足は痩せ衰え栄養失調となり死にいたる「謎の病」だった。この病気にかかるのは、山梨県が最も多く、福山、久留米などでも多くの患者が苦しんだ。しかし、長く、その病のメカニズムが解明することができず、多くの人たちが苦しんだ。

この地方病が、多くの研究者や医師、行政職員らの努力によって解明された。その原因であった日本住血吸虫という寄生虫の生態は、以下のようなものだった。

成虫(寄生虫には珍しくオスとメスがいる)→虫卵→孵化→ミラシジウム→中間宿主(ミヤイリガイという小さな貝)に侵入→母スポロシスト→多数の娘スポロシストを形成→中間宿主のミヤイリガイから外へ→セルカリアになる→終宿主となる哺乳類に寄生→糞に虫卵・・・・

日本住血吸虫のライフサイクル

武田家家臣がこの病気に苦しんでいる様子が記録されていたり、2000年前の中国でも、この寄生虫に苦しんだ形跡が見られるという。本当に長きにわたって人々が苦しめられてきた。

異常に大きくお腹が膨らんでいる患者たち。宮入慶之助氏がミヤイリガイが中間宿主であることを発見した後も、その貝を駆除するために、貝を一つひとつとったり、川周辺を焼いたり、小川を全てコンクリート化するなど、涙ぐましい努力をしてきた。久留米では、このミヤイリガイを絶滅させたという。現在では、山梨や千葉の一部に今でも生息している。

苦しむ患者たちを救うべく、地域医療に尽くした多くの医師たちがいた。中間宿主が発見された後も、寄生虫が人間の体内のどこにいるのかがわからなかった。感染した女性患者が、自ら献体を申し出るということもあった。

その結果、寄生虫が、皮膚から、酵素で皮膚を溶かして哺乳類の体に侵入し、心臓に、そして体全体に。その後、門脈に集まって、血管を詰まらせる。それによって、人間などの終宿主は、栄養失調となり死んでいくことが解明された。大正時代からは、薬の開発も進んだが、当時は、大量の薬を摂取しなければならなかったという。現在では、薬も開発されている。

久留米、福山などでこの病気の撲滅が進み、最後1996年2月19日、山梨県から地方病流行終息宣言を発するに至ったという。そして、それから30年という記念の今年、このような展示がされたのだ。

コロナを思い起こすような事態だ。コロナは、まだすぐに原因となるウィルスが発見された。この地方病は、その原因がわからず、それを解明するのに相当長い年月がかかった。

不思議なのは、寄生虫なのだが、面ではなく点で被害地域があることだ。この点は、きちんと回答がもらえなかったが、連れ合いによると、川の流れの関係でミヤイリガイが生息できるところが限られたためではないかと言っていた。そのほか、さまざまな要因が考えられるようだ。

山梨県は、フルーツ県。これまでずっと、火山灰質の土壌ゆえに水捌けが良いため米が育たないのだとばかり思っていた。しかし、それだけではなかった。水田もあったが、水田に肥料として糞尿を撒き、その中に虫卵があり、農民が感染していった。そのため、水田を埋め立てて、畑化していったという背景もあるようだ。フルーツ王国山梨の悲しい歴史なのかもしれない。

展示やドキュメンタリーフィルムを通して、研究者、医師、行政職員、地域住民らの血の滲む努力があったことを知った。その病気が謎であったため、この病気の患者が多い地域には「嫁にやるな」など、差別もあったようだ。現在でも、フィリピンなどでは、この病気に苦しむ人たちがいる。(第二次世界大戦中、米軍兵士もフィリピンでこの病気に苦しみ、戦後、日本政府とともに共同研究を行っている。)

展示では、オスとメスという珍しい寄生虫そのものを顕微鏡で見ることができた。驚きだった。

患者、そしてその家族をはじめ、多くの人たちが苦しめられた。そのプロセスは、小林照幸「死の貝ー日本住血吸虫症との闘いー」(新潮文庫)にまとめられている。興味のある方は、ぜひ、ご一読を。

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